無題






人と建物の間には常に密接した関係性がある


どちらかを失えば、片方はすぐに朽ち果ててしまう







主を失ったこの家は誰かに見届けられる事無く、すぐに崩れ落ちたと云う






それが一体何時だったのか . . . .





静隠な内海は答えてはくれなかった






僕はこの街の過去を知る事に意味など無いと感じてしまった 




連夜の街


1970年代終わりに全国の遊廓赤線跡地を撮り続けた女性カメラマンがいた。

彼女の名前は石内都。

「連夜の街 〜ENDLESS NIGHT〜」と題された写真集が発表されたのは1981年。

赤線廃止の余韻が微かに残る時代に、彼女は全国の遊廓赤線跡地を記録では無く作品として写真に収めた。

そこに写し出されたモノクロの妓楼群はあまりにも生々しく、建物が辛うじて生き延びている証でもあるといえる。


その写真の迫力に僕はただ圧倒された。


とある日の事、よく足を運んでいる中村の家のお婆ちゃんと話をしていると

「あんた達みたいに遊廓の写真を撮ってる女性が家に泊まりこんでた事があったよ。今じゃ有名な写真家になったみたいだわ。」

それは石内都さんの事であった。

単に跡地を写真に収めるのでは無く、彼女はその街に溶け込んでいた。

中村だけではない、都内は勿論、安浦、飛田に至るまで…

連夜の街の最後にはこう記されている


『名古屋の中村遊廓をもってこの「連夜の街」は終了する。この街には新たな接触が待っているように思える。』


石内さんの中村に対する想いは特別なのかもしれない。

僕は石内さんに会いに行く事を決めた。




出会い


この趣味を始めるきっかけとなった街 '' 中村 ''


かの吉原をも凌ぐ全国屈指の大遊廓がそこにあった


建物のひとつひとつがあまりに巨大に見え、なかなかそこに入り込む勇気が出ない


何度も通っては、かつての残像を僕らは追い求めていた


ある日ようやく決心がつき、とある家の扉を開けてみた


そこに広がる景色はまさしく遊廓そのものであった




大げさな表現かもしれないが、映画で見たそれそのものである


役目を終えた客室、帳場、ホールは当時のまま取り残され、随所に施された装飾は輝きを失い、哀愁すら感じる




そんな建物とは対象的に、そこに住む人達は明るく、なんの躊躇いや警戒も無く僕らを受け入れ、沢山話をしてくれた


何度もその家に通いつめるうち、いつの間にか深い付き合いへと発展した




ここの家もあと数年たてば取り壊すという


残された僅かな時間で何か出来ないか、何かを残せないかと思っている


とりあえず、大掃除でもしてみよう


 かつての輝きが少しでも取り戻せるかもしれない



三重県の遊廓


休日の度に遊廓跡巡り(ギグ)を行っていますが、そう毎回遠くへ行ける訳ではありません。

他の方々のブログを見ていると、よく毎回遠くへ足が運べるものだと関心してしまいます . . . . 。

近場でどこか無いかと調査した結果、三重県がありました

三重は愛知のすぐお隣ですが、余程の用事が無い限りあまり足を運ぶ機会がありませんでした。近くて遠い印象があります。
しかし!!三重県は凄い. . . .

昭和5年発行の「全国遊廓案内」を元に三重県に存在した遊廓をまとめてみました。(遊廓名は全国遊廓案内に記載されているまま。カッコは現在の地名になります。)

長島村 (桑名市長島町)
桑名町
四日市高砂町
菰野町
石薬師町
亀山町
一身田町
津市藤枝町
伊勢上野 (津市河芸町上野)
神戸町 (鈴鹿市神戸)
久居市北新地 (津市久居町)
松阪町
尾鷲
引本町 
田丸町
治山田市新古町 (伊勢市)
古市 (伊勢市)
神社 (伊勢市神社港)
名張町
鳥羽
的矢村 (渡鹿野島)
濱島 (志摩市浜島町)
荒坂村 (熊野市ニ木島町)
ニ木島町 (熊野市ニ木島町)
神口町 (不明)

その数実に25箇所!北海道、山口県についで全国3位の数の多さです。
その他に、戦後の赤線を含め判明している場所として

伊賀上野
富田
湯ノ山
四日市諏訪栄町
庄野
江島
関 (亀山市)
二見浦(伊勢市二見浦)
阿下喜町(いなべ)
津市極楽町
木本(熊野市)

足すとその数38箇所にも及んでいます。



では何故三重県にはここまで遊廓が多いのでしょうか??ちなみに愛知県の遊廓指定は意外に少なく4箇所(戦後赤線として約31箇所まで膨れあがるのですが…)。東京でさえ10箇所なのでその数の多さがわかるかと思います. . . . 。



その答えは伊勢神宮です。


江戸時代には国民の5人に1人が伊勢に行ったとも云われ、「一生に一度は伊勢参り」と歌われる程、全国各地から伊勢を目指し旅をしたそうです。東海道から分岐する伊勢街道には多くの宿場町が栄え、同時に遊廓が形成されたと容易に予測がつきます。

しかし明治に入ると鉄道が敷かれ、街道は時代に取り残され、多くの旅人で賑わった宿場町も衰退を辿っていきます。

全国遊廓案内を読んでも、どこの遊廓も小規模なもので昭和の始め頃にはすでに衰退てしまった街が多く書かれています。中には地名さえ歴史に埋れてしまっている場所もあります。



そんな歴史ある三重の遊廓発掘をテーマに足を運んでみようと思います。


ギロウズ夏ツアー ~京都橋本に泊まる4 ~


新宝光旅館に続きこの夏2度目の元遊廓旅館に宿泊してみました。

今回は京都橋本の多津美旅館さんです。


ここ多津美旅館でも普段の生活と何ら変わりのない、のんびりとした時間を過ごす事になりました。

ここが元々妓楼だった事なんて忘れてしまうものです…。妙に落ち着きます。

メンバーがまだ寝ている中、自分だけ朝早くに目が覚めました。



気がつけばカメラをぶらさげ橋本の街をぶらり。

 
ご近所さん同士が「おはよう」と挨拶を交わしあい、「いってらっしゃい」と仕事へ向う主人を送り出す声が聞こえます。


どこの街とも変わらない日常の光景。


昔ここが遊廓だった頃、一体どんな街だったのであろうか…


橋本の街には当時の面影を忍ばせる建物が数多く残されていました。









早起きは三文の特でもいいましょうか、玄関が少し空いていた御宅がありましたので許可をいただき撮影させていただきました。


実に見事なタイルです. . . . 。





別のお宅の玄関先。もう言葉が出ませんね . . . . 。

しかし、それ以上に凄いのはやはり多津美旅館です。






多津美旅館は元々いろは楼という屋号だったそうで、ステンドグラスの横にかすかに英語でIrohaとかかれているのがわかります。

そしてその横にあるアーチ装飾がまた凄い . . .





これ何なんですかー!!!!

女将さんに伺うと何かよくわからないとおっしゃっていました(笑)。

ステンドグラスの絵が示す通り、1階はダンスホールになっていたらしく、フロアへの入口だったのではないかと思いす。

そのダンスホールだった場所は食堂になっていました。




ここで朝食をいただく訳ですが . . . .




裸の美女にチラチラ見つめらています . . . . 。お味噌汁はいつもと違う味がしました(笑)



多津美旅館の外観や壁は綺麗に手直しが行われていますが、ステンドグラスやタイルなどは勿論当時のままです。まだまだ旅館業は続けられるそうですので、またいつか泊まってみたいと思います。


橋本へは、京都市内からは大分離れておりアクセスはあまりよくありません。コンビニなどの商店もほとんど無い場所ではありますが、街並みは素晴らしいの一言です。

あと何年この街並みが残されるかはわかりません。

是非お早めに橋本へ足を運んでみてはいかがでしょうか。


ご親切にしていただいた多津美旅館の女将さん、橋本湯のお父さん、建物の中を見せていただいた方々へ心より感謝とお礼を申し上げます。

ギロウズ夏ツアー ~京都橋本に泊まる3~


多津美旅館にチェックインした後、旅の疲れた体を癒すべくお風呂へ。


かつて遊廓の入口があった場所に橋本湯はあります。

時刻は22時過ぎ、閉店ギリギリにも関らず番台からお父さんが心よく出迎えてくれました。

橋本に残る妓楼同様、橋本湯さんも開業から100年近く経っています。意外に中は綺麗に改装されていました。







電気風呂、サウナも完備。昔ながらの銭湯のイメージとは少し違っていましたが、とてもいい湯でしたよ。

お風呂上がりにお父さんと談笑。遊廓の名残を見に来たと伝えると、お父さんはニヤリとしながら脱衣所の脇にある扉を開けてくれました。

するとそこには . . . .


ステンドグラス!!

勿論ここは妓楼ではありません。多津美旅館のものに比べれば地味かもしれませんが、一般住宅にもステンドグラスが使われていたのですね。

脱衣所にはこんなものもあります。



木製の古いベンチですがよく見てみると



辻よし楼と屋号が彫られていました!!

更に、お父さんニヤニヤしながら番台をゴソゴソしています . . .

番台から出てきたのは、なんと「赤線跡を歩く」!!

木村さん本人が持ってきたかどうかはわかりませんが、しっかりと橋本のページの角先が折ってありました(笑)

お父さんの撮影許可もいただきましたので記念に . . . .



少し無理矢理な写真ではありますが、やらせではないですよ。着ているTシャツがとても気になります . . .

お父さんはとても気さくな方で橋本の古い話も色々と聞かせてくれました。

是非橋本へ行った際は橋本湯でひとっぷろ浴びて見て下さい。



次回はいよいよ橋本の街並みを歩きます



ギロウズ夏ツアー ~京都橋本に泊まる 2 ~



今回お世話になる多津美旅館です。

外観こそ作り替えれてはいますが、こちらも元遊廓旅館です。

それでは、おじゃまいたしましょう。


「こんばんはー。」


ガラガラ . . . .






うわぁ~!!!!すごい!!!!

見事なステンドグラス装飾。紳士淑女が踊っています . . . . 。

このステンドグラスを拝みたく、橋本を宿として選んだのです。

中から女将さんが現れ、とても親切に僕らを出迎え入れてくれました。

20時も過ぎ、非常にお腹が空いていたので館内の撮影は翌日お願いする事にします。



ただ、どうしても今だから見てみたかった事がひとつありました。


女将さんに無理を承知でお願いしてみると、にっこりとスイッチをつけてくれました。





実はこのステンドグラス光るんです!!まるで本当に踊っているかのよう . . . . 。

遊廓時代ここはダンスホールとして使用され、客は気にいった女性を見つけ、踊り、一夜を共にしたのです。

この2人が踊るのは一体何年ぶりなのでしょうか?とてもロマンチックでした。


(つづく)

ギロウズ夏ツアー ~京都橋本に泊まる 1~


奈良から大阪経由で橋本の街へとやってきました。


京都府八幡市橋本は京都と大阪の県境、そして「宇治川」「木津川」「桂川」が合流し「淀川」となる場所に位置しています。豊臣秀吉によって京都と大阪を結ぶため淀川沿いに築かれた京街道の宿場町として栄えた場所でもあります。

「宿場町に色街あり!!」

お決まりのフレーズです!!教科書にも出てきますよ!! (出てきません)

全国遊廓案内によりますと、橋本遊廓は

「明治十年に創立、業者75名、娼妓470名、芸妓30名。夜間の不夜城、川岸に歌のさんざめく別世界」

と書かれています。遊廓が廃止され約50年経った今でも多くの妓楼が残されており、当時の賑やかさを想像する事が出来る奇跡とも云える街並みです。

ただ、京都の人に聞いても大概は「橋本ってどこや?」と聞かれる場所です。

大阪から京阪急行に乗り、橋本に着いた午後8時の時点で駅前は真っ暗 . . . . 。

と云うよりもお店が何もありません . . . . 。更にはコンビニすら見当たりません。(駅前に唯一あった商店はすでに閉まってました。)

そんな何も無い橋本が今回の宿泊先になります。

橋本にはどうしても泊まってみたいと思っていた旅館があります。

遊廓に少しでも興味のある方でしたらお気づきでしょうが、今回の宿はこちらです!


多津美旅館さんです。

一泊なんとなんと¥3,500!!朝食付です!!

しかも予約にはFAXを使用 . . . . 。



果たしてどんな旅館なのでしょうか。

ガラガラ

「こんばんはー . . . . 」


(つづく)


ギロウズ夏ツアー ~続、木辻遊廓を歩く~



先ほどの花園新温泉のご主人に教えていただいた旅館を発見しました。





エントランスがもの凄く立派です. . . . 。屋根はドーム状になっています。


玄関先から中を除くと丸窓が見えます…。これは転業旅館に間違いないと確信しました。

いよいよギロウズお得意の登楼交渉が始まります。

帳場から60歳位の旦那さんが出てきました。中を見学させて欲しいとお願いするとすんなりOKが出ました!!

「ここは昭和33年までは遊廓をやってました。売防法後は旅館に転業し今に至ります。僕はギリギリ遊廓を知らない世代で、おじいさんの代が1番賑やかな頃の遊廓を知っている世代です。戦争を境に時代は暗くなり僕らの親父の世代では遊廓というと少し冷たい目で見られるようになりました。所謂赤線時代ですね . . . 。」


遊廓から転業への道のりについて非常に分かり易い説明をしてくれました。


「旅行客はこんな場所まで足を運びません。随分客は減りましたが、今ではバックパッカーで奈良へくる外人客がほとんどです。安くて評判がいいんです。」

ちなみにこちらの宿泊代は、1泊なんと4,000円!!

今日の宿はここに決まり!!

と思いましたが、しっかりと宿泊先はおさえてありますよ。(そちらは後ほど)

因みにお父さんはもの凄くよく喋る方で、遊廓の説明から、何故か電話からインターネット社会への移り変わりまで歴史の流れを事細かく説明してくれました…

約15分の講義が終わった所で、中へとお邪魔いたしましょう。




いゃあ!お見事!!中庭がもの凄く綺麗に手入れされています!!


玄関から覗いていた丸窓の奥は吹き放しの廊下になっており、中庭が展望できます。


トイレとお風呂。どちらもタイル装飾が見事です。こちらは戦後のままとの事。

敷地内は4つの建物が中庭を囲むロの字型になっています。


異世界への架け橋こと、太鼓橋もしっかり架けられています。奥の建物はプライベートルームのため見学は出来ませんでしたが、大正時代に建てられたもので中は洋風になっているそうです。

こちら木辻遊廓の中でも相当の大店だったのでは??

「芸妓も数名在籍していました。ここの廓の中でも大店の方ですね . . . . 。」

やっぱり . . . . 。

それではお二階の客室を見せていただきましょうか



うわぁ~~!!きゃーん!!


横でグルメさんがいろっぽい奇声を発しましたよ。

各部屋それぞれに飾り窓がつけられており、それが部屋の名前になっています。


入船

千鳥

ひさご



どんどんいきますよ!!


丸窓

つき


まつ

桔梗


全部で10部屋、10飾りありました!!これはシャレオツです。



こちらが大階段です。昔と配置は変っているものの見事な和洋折衷です。

古い建物だけあって維持するのがとても大変であり、つくづく嫌になる時があると言っていました。ただ、お父さんご自身が古い物を愛し、残される大切さについて熱く語ってくれました。

遊廓建築は維持が非常に難しく大概は野放し状態になり、取り壊されてしまうものですが、ここまで綺麗に手をいれられている事にとても感動しました。

帰り際、お父さんご自慢の車を見せてくれました。マニア涙もののホンダS600。
ここから15分間、本田宗一郎について今まで以上に熱く語ってくれました . . . .。


奈良へお越しの際は是非静観荘旅館へ泊まってみてはいかがでしょうか?我々も是非ここへ泊まってみたいと思います。お父さんの熱弁トークも楽しめます。静観荘ホームページ
 これにて奈良は終了。駆け足で次の地へと向います。
(つづく)